2008年10月25日

歌うこと

歌に対する気持ちや姿勢というものは、
まだちゃんと向き合い始めたばかりだからというのもあり
日々変わっているのですが

以前、歌づくりをしているということを書き、
しばらく続けていたのですが、
この頃はむしろ既存の歌をいかに歌うか、
とかレパートリーをどれだけ持っているか
という方に興味があります。

まあ、もっと単純に言えば自分のつくる曲がそこまで好きではない
ということもあるのですが。


ただ、いかにカラオケがあるとは言え
ポップソングや創作的な音楽全般に言って、
「これはこの人の曲」という、歌=人という感じがある
これはあんまり好きじゃないなと思うようになってきました。

そういうわけで、クラシカルの方に今は俄然興味があります。
南インド音楽に限らず、色んなね。
クラシカルでは、作詞・作曲者は確かに偉大だけれども
曲や歌は基本的に皆のもので、いかにして歌うか・奏でるかが問題ですよね?
ポップでも、いわゆる名曲はそういうふうになっていくもののようだけれども。

あとね、前々から思っていたのですが、確かにCDはいいんだけど、
どうやったって生身には敵わないですよね。
BGMとしてではなくて歌の世界に本当に入り込みたい時、CDだとチューニングに時間もかかるし。
以前木村弓さんがキャンベラにいらした時に、本当に感動して、
それはもうびっくりしたんです。
歌でこんなこともできるんだって。

Jポップも、この頃はせっかくだからと洋楽も聴き始めたのですが、
変わらず大大好きなものの、それはカラオケで楽しむとして、
もっと古典音楽の分野を開拓していかねばなと感じています。
民俗音楽的な古典の方には特に興味が。


あとすごく興味があるのは、文脈の中の歌。
だから好きなんだろうなあ、インド映画とか、ブロードウェイとか。
今回の帰国では安ーい端の席でいいから、劇団四季や宝塚を観に行きたいなあ。というか行こう。
そういう表現を、個人レベルでしていくのはどうしたらいいかなとか
この頃よく考えています。
(プロフェッショナルな道へ進まずにやっていくにはってことですね。ようはアマチュアとして)

ケララでは、というかインド全体で言っても、ポップソング=映画音楽なのですが。
みんな知ってる歌というのがやっぱり映画音楽で、この映画のこの場面の歌なんだって説明してくれるんですよね。
そしたら、歌詞を説明してもらっても、納得できるじゃないですか。
またこの歌詞が、本当に詩的で美しいんです。
キャッツのメモリだって、物語を知っているからこそ迫ってくるものってあるんだと思うし。
来年、やりたいことはたくさんあるのですが、一つはケララ出身の人を誰か探して、私が持ってるCD(70〜80年代映画音楽)の歌の歌詞を教えてもらうことなんです。

でもそう、そこのケララでの歌の先生が、冗談で「movie song singerになっていたら今頃お金持ちだ」なんてことをよく言っていたのですが。
でもね、たとえばコンサートなどでは、客層を見て映画音楽を入れたりはするものの、
本来は表現の自由がきくクラシカルの方が好きなのだと言っていました。
映画音楽だと、たとえば有名なイェーシュダースの歌ったそのままの歌い方を、観客は求めるから。

それを聞いたその時は、そういうものか、ぐらいとしか思わなかったのですが、今はわかる気がしています。

アジアの音楽という授業をとっていて、民俗音楽で、
基本のメロディは決まっていても即興の占める割合がすごく大きいというもの
たくさんあるんですね。
それって、やっぱりそうやって人は楽しんできたんだってことだと思うんです。


こういうことを考えていく時、やっぱり日本にこだわることはないのかな、とまた思うようになってきました。
他にもね、色々な要素はあるのですが。そう思うようになってきたのは。
そのうち、精神的に越境者であることについて書いてみようと思います。

しかしね、これまでこのブログを観察していらした皆さまにはおわかりかと思いますが、私の気持ちや状態というのはころころ変わります。
今まで、それを特に悪いことだと思ったことはないのですが、
以前何年か越しの片思いの相手に「本当にすぐ変わったね」みたいなこと言われて以来ちょっと引け目を感じるようになったことも事実で、
ああ単純だなあというか、乙女だったんだな自分と感じている日々です。
posted by ふね at 03:47| Comment(15) | TrackBack(1) | 創作ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月21日

チャイあれこれ

ちりさんに触発されてチャイについて書きます。

オーストラリアに来て以来ラクトースintolerant(過敏症?)な私ですが、ケーララから戻って来てからというもの、やっぱり豆乳よりも牛乳のチャイが飲みたい! という気持ちが強くなってきました。

どういうわけか、インドでは牛乳、大丈夫だったんです……。他の方の話を聞いていると、どうもオーストラリアや欧米?なのかな?の牛乳の精製(という日本語が合っているかどうか……)の仕方に問題アリのよう。

なんにしろ、そんな時にラクトースフリーの常温で売られている牛乳を試してみました。そしたらおいしくて、なかなかイケる! 高温加熱の結果、ラクトースがグルコースに変化してちょっと甘くなるみたいです。正統派な牛乳が好きな方には邪道に思われるかもしれませんが、私はすごく気に入りました。

豆乳には「レインボーチャイ」という葉っぱ茶を使っていたのですが、ラクフリ(思い切って略)にはイマイチ合いません。というわけで、以前友達に貰ったまま全然使っていなかった、Clipperのオーガニック・インディアン・チャイ(ティーバッグ)を使いはじめました。

これが中々アタリで、そこはかとなくケララの甘ーいチャイを思い出すお味。(甘いのは、私がお砂糖をたくさん入れているからでもあるのですが。)段々残り少なくなったので今日スーパーで色々な種類のチャイを見てきたら、どうもスパイスの種類がメインストリームとは違うみたい。

大体、ブラックペッパーやカーダモンにシナモンなど、強いパンチのきいたスパイスが入っているものなのですが、Clipperの場合は、シナモンこそ入っているものの、あとはクローブにレモンピール、それからフェンネルだけ。シナモン以外のスパイスは、他のチャイでは見受けられませんでした。ちりさんの書かれているパンジャビスタイルに近いのかも。

ケララ出身の方がつくるチャイはマイルドなのだそうですが、私の中のチャイも、そんなものな気がします……。だからClipperのが好きなわけで。いつも飲んでいたのも、列車の中で買ったのも、とっても甘い、スパイシーではないマイルドなチャイでした。

実際、T2のチャイなんかだとカーダモンが効きすぎてて私は妙な具合に「酔って」しまいます。テンションが急激に上がってぴょんぴょん飛び跳ねて饒舌になります。(本当の話ですって!)

ところで私のチャイのつくりかた。適当な我流ですがいちおう公開。
@たぶん本当はチョコレート用のお鍋にカップ一杯分の牛乳(ここではラクフリ)を入れる。どんな鍋でもいいはずです、大きすぎなければ。
Aお茶っ葉かティーバッグを浸す。ティーバッグだと楽です、後でお箸で取り出すだけだから。
B火にかける。強火。
C端っこから泡立ってきたら一気に弱火に。(このへんの感覚はバリスタをしていた経験から身につけました)
Dティーバッグの場合はお箸を使って風味を搾り出してから、取り出す。
E火を消し、カップに注ぐ。お茶っ葉はストレイナーで濾します。
F砂糖を小さじで3-4杯は入れます。お好きなだけ。


そういえば、ケララの露店で飲んだチャイは泡立っていました。特に気に留めていなかったけど。

前に友達とビッグW(何でも屋さん系のチェーン)をうろうろしていた時にドーナツメーカーを見つけて、「ドーナツ好きなの?」と聞かれ、「いや別に」「へえ(苦笑)」「というか、好きだけどわざわざつくるほどではないかな」「わざわざ作るほど好きなものは何?」二分ぐらい考えましたが、「チャイ」と答えました。

少なくともオーストラリアでは、チャイに関しては自分でつくりたいなあと思う。だってそっちの方がおいしいし。まともな料理なんて滅多にしなくなってしまいましたが(ここが、一人暮らしのつらいところです、だって食べさせる相手がいないんだもん……いや、シェアなんだけどね)チャイだけは、ちょこっとだけ手間をかけて毎日つくって、幸せになっています。
posted by ふね at 21:49| Comment(6) | TrackBack(1) | 食事ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

うるさい?邦楽

邦楽ってやっぱり面白いな〜 ちょっとうるさいけど! と思いました。

今日はお友達とカラオケに行ってきました。キャンベラにやっと来たアジアンスタイル(バーじゃなくて、ちゃんとボックス部屋の)カラオケ! ラインナップはさすが韓国製だけあって私好みの古いのとか新しすぎないのとかがたくさんありました。

恋のバカンスや神田川や桃色の片思いや宇多田ヒカルやらを歌いました。

一緒に行ったのがこっち(オーストラリア)の女の子だったのですが、当然歌うのは英語の曲(ちなみに歌詞がよく間違っていた。綴り間違いとかも、私はよく見てなかったけど多かったらしい)。すてきな曲たくさん歌っていていくつかメモしたりしたのですが、思ったのは、邦楽ってすごくインストゥルメンタル。

とにかくバックミュージックがでかい!
洋楽の時はそんなにうるさくないのに、私が歌う時はとにかくうるさい……笑 なのにボリューム調整できず。

で、私はそんな邦楽が好きだわ、すごく、と再認識したカラオケでした。ついでに、自分が裏声じゃなくても歌えることを発見しました。これは嬉しいです、もう何年も地声じゃ歌えなくなっていたので。たぶんここしばらく歌い続けていたのと、マイク効果。楽しかった!
posted by ふね at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

一度は通る道

いろんなことは置き去りに、あっさりさっぱり盛り上がっているオリンピックには複雑な感情を持たざるをえないふねです、こんにちは。

選手たちの努力の成果が表れるところだから、そういう点で大事ということはわかるし、うるさく言うのは「KY」なんだろうなあ、とも思うのですが。でもね、チベットでも環境問題でも、メディアだって割かし騒いでたのに、皆で「それはそれ、これはこれ」で「感動しようじゃないか!」というのはやっぱり(特にメディアは)調子がよすぎるんじゃないか、と思うんです。

ま、開幕式だってたまたまその日、母に電話しなければ気づきもしなかった私に言えることじゃないのかもしれないけど。(そして見もしなかった……テレビ、見ないのよー)


ところで、この頃歌を書き始めました。はじめたのは先学期で、いくつか作ってから「パクリっぽい」……と嫌気が差して、というかやる気を無くしてやめてしまったのですが。

久々に思い浮かぶものがあって、書いてみたらやっぱり面白かったです。それで前のも見返してみたら、そんなに悪くない。というかさすが、超私好みに仕上がっていて、再びやる気を取り戻しました。ものすごく納得がいく出来ではない、というのも「もっと経験を積んでレベルアップだー」というような気持ちにさせてくれました。

まあ、元々、自分で歌うためだけに、「私のための歌」のようなものがほしい、というような気持ちから出発しているので(たぶん。始めるきっかけなんて曖昧なものですよね?)、自分が楽しめればいいんですけどね。でもやっぱり、あんまりパクリっぽいと、ちょっと空しくなってくるというか。

と、いう話を昨日友人と話していて、その子も歌づくりをするのですが、そういう「パクリっぽい」というのは、皆一度は思うことで、でも乗り越えてかなきゃいけないんだよ、というようなことを言われました。

確かにね、私も考えていたのですが、たとえば詩や物語でも、あるいは絵でも、同じことが言えるんですよね。こっちの方は、私の場合あまりにも小さな時から慣れ親しんでいたために特別そういうふうに感じることはなかったのですが。

だって、音も、言葉も、音符の組み合わせも、色や形の組み合わせも、ある程度は被ってしまうもの。そこまで何から何から奇抜なものなんてそうそうありません。それでも、可能性は無限にあって、ほんの少しのズラシやちょっとした組み合わせの違い……辿る枝葉を一本変えただけで、違うもの、ユニークなものになるんですよね。特にカルナティック音楽を学んで、ラーガという概念を知ってからはより実感できるようになりました。

だからまあ、やっぱり正直メロディに関しては「これどこかで聞いたことある……」と思う部分がたくさんありますが、とりあえずは好きなように色々つくっていって、段々感覚を研ぎ澄ましていければいいんじゃないかなと思っています。

でもね、昨夜見た夢でタイ料理屋に入ったんですけど、そしたらまんま私がつくった歌のメロディが流れてくるんですよね。一番新しくつくったやつで気に入ってたのに、そうかやっぱりパクってたのか自分、なんて思っていると、よく聴いたら歌詞までまんま。「待て、これはどう考えてもありえない」……なんて思っていたらその辺りで記憶が途切れているのでたぶん目が覚めたのでしょう。

自分のつくった歌を店で聴く、というなんとも得がたい体験をしてしまいました(夢だけど)。そういえばこの前音楽の授業でカルナティック音楽についての発表をして、その中でちょっと歌ったのですが、まあ正直発表自体は久々なこともあり全然うまくいかなかったものの、歌うこと自体は楽しかったです。その後しばらく気分が高揚していて、どういうことかなと思っていたのですが要するに人前で歌うことが快感だったということなのかなと。きっとこの体験も影響していると思う、夢に。妙な具合に色々まざったんだろうな。


この頃は創作をする人間が周りに割とたくさんいて、それだけでも何となく刺激になるんですね。やっぱりいいな、こういうの。
posted by ふね at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月03日

ひと

オーストラリアに戻ってきてからはや……三週目に突入。
といっても、まだ二週間しか経っていないのですね。
早い、と言うつもりだったのに、「まだこれだけか」ってところ。

この頃、また、オーストラリアが好きになってきました。
積極的な、能動的な「好き」ではないけど
あと何年か住んでも大丈夫だなあ、これなら
というぐらい。

ケララがどうしてあんなに好きになったのかというと、
たぶん、触れ合った人々が、主にアーティストだった
ということも大きいと思うのです。

この人の言葉は信じられると、思える人が多かったということ
特に歌の先生なんか、本当に純粋なかわいらしい先生でね。
(男の方だったのですが)
田舎だったしね。

前回も書きましたが、帰ってきてみると、
会いたい、話したいと思う人が思いのほかたくさんいる
ということに気づきました。

人って、本当に大きい。友達ってほんとに大事。
気づいてみれば、息がしやすい環境を、自分で整えていっていたんだなあ。

オーストラリア全体の傾向で言えば、やっぱり、
建前ばっかりで何を信じていいのかわからない、というところは
あります が (日本でもそうだなあ、これは)

大切なことをしっかり自覚すれば、
なんとかなるんだな。

この前も、今はドイツにいる親友が私からのSOSに電話をしてきてくれて
かるく二時間 話しました。
しばらく自己嫌悪や恋煩い?やらでどん底だったのですが
話してみれば、すごく気持ちが軽くなり

ここまで話してもいいと、信じられる相手が
私は今までいなかったのか…… と、初めて、改めて、思い知り

巡り会いに、感謝しています。




今は気持ちがすごく穏やかなので、この状態をちゃんと覚えていたいなあ。と、思います。

posted by ふね at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月20日

インドから戻ってきて

一ヶ月ほど、インドに行って参りました。
昨日、帰ってきたのですが。我ながらびっくりするほど落ち込んでしまって、今日は気が付いたら午後の四時。こんなに寝てしまったのは初めてです。さして動揺していない自分にもびっくり。

見つけたものは、色々あるけれども、たぶん一番大きいものは、自分にとっての歌の位置づけでしょう。だから、私にとってインドは音楽です。
(ところで、少なくともケララでは、クラシカルでないポップソングといったら映画音楽なのですね。だから映画もしこたま買い込んできました)

それから、今現在もオーストラリアにいますが、私にとってのオーストラリアが完全に過去の国になったこと。寂しいけれども、これはもう恋の終わりのようなもので、仕方ないのかなと思います。あと一年半、大学とhonoursが終わるまではキャンベラにお世話になりますが。

(でもでも、そうなって初めて、じつはしっかりとたくさんの友達と出会えていたのだと気づくのです。……割と、日本人とつるむことも多かった私ですが、こうなって思い浮かぶのは、ふしぎと日本人でない方ばかりなのですね。私が、勝手にいじけていたということかな)

同じケララでも、私がいたのは割と田舎の方で――と、いってもそれがケララの大半の生活なのでしょうが。映画を見ていても、舞台はだいたい、農村ですもの――都会のコチなんかはイマイチ好きになれませんでした。CDやDVDはたくさんあったけどね。

***

前にもちょこっと書いたことがありますが、私にとって、好きなこと、やりたいこと、できること、というのは、やっぱり、違うみたいです。ずーっと、この違いがわからなくて、ごっちゃにしてきたのですけど。

私の得た感覚では、ケララでは、ローカルのアーティストさんたちが割りと多くいらっしゃるようでした。私が知らないだけで、日本でもそうなのかもしれませんが。でもその感覚が、妙におじけついていた心を後押ししてくれました。

自分なりの論理を展開して、自分を納得させたり、安心させたりすることは得意な私です。今回も、そうなのかも。と、思いながら、今までも、今も、みずぼらしく失敗するのが怖くて、逃げていたのでしょう。

怖くても、動き出さなきゃな。私の場合、「できること」の基準が、割と「普通」とずれているので、ごまかしやすかったんだろうな。

本気のスイッチの入れ方が、よくわかりません。
……書きながら、いや、わかってるじゃん、という私もいます。なんだかな、今、転機なのかな。就活こそしないものの、それに相当するところに、私はいるのかも。現実的でないと思ってしまえば、挑戦しないのなんて簡単なんですよね。私、見栄っ張りだからなあ。

こういうことを考えているうちは、やっぱりまだ、オーストラリアにいるのが丁度いいのかも。ゆりかごに揺られながら、ゆっくりと調整していけるように。……どうだかなあ。
posted by ふね at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 心理ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月16日

socially constructed

男も 女も 社会が見せる夢

というか

男が男らしくあるのも、女が女らしくあるのも、
社会によって形作られたものだ

と、いうのは以前から社会学などで学んで
そういう考え方があるというのは知っていたのですが

このところ仲良い友達は一度ジェンダー学をやったそうで
彼女と話していて、確かに、とだんだん考え込むように
なってしまいました。

私が男性不信のケがあると言うのも、
基本的には男性の精神的な特質に対する反応としてなので

それが社会によって形作られたに過ぎないのなら……

そんなことを考えて、近いうちにル・グインのSFを読むべきだな、
などと考えています。
闇の左手』を、彼女に勧められたので。
原題を聞いて、すぐに日本語版の題がわかった私は、
やっぱりオタクなのだろうなあ、なんて思いつつ。

ジェンダーや、社会や、そういうところへの疑問から
創作にエネルギーが向かっていくというのは、
荻原規子さんの著作なんて読んでいると、邪道のような
気がしてしまうのですが
たぶん、私はどちらかといえばそういうスタンスの人間なんだろうなあ


しかし、こうまで私の考え方を影響するような子に出会ったのは、
初めてかも。これで彼女が男だったら完璧惚れてたわ。
いや、けっこうな変人だから、同性だからこそ惹かれるのかも。
そしてオーストラリア人ということがまたウケる。
オージーには、もう本当に話せる人なんていないだろうと諦めかけていた矢先だったので。感謝!
posted by ふね at 23:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 創作ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月27日

おばあちゃん像 と、歴史とか

ふと、気づいたこと。
こっちに来てから、「こうなりたいなあ」と思える
おばあさんに会ったことがあるだろうか。

……少なくとも、すぐには思いつかない。

接客をしていると、どちらかといえば<あつかましい>感じを受けることが多い。
小鳥のように、少女のように無邪気に。
それが、この国のおばあちゃんのステレオタイプなのかもしれない。

多少のあつかましさは、女であるなら許されるべきものなのかもしれない。
きっと、私の年代とは何から何まで違う社会や慣習の中で少女時代を過ごし、やがて母になり、子どもだちが巣立つ(ってないかもしれないけど)のを見守ってきたのだろうから。

ただね。
考えてみると、私の理想とするおばあちゃん像は、母方の祖母なのだ。
小さい時は、私は家族の全員に対して「こんな大人にはならない」と思っていたはずなのに。

母方の祖母は、刺繍が趣味で長年教室に通い、書道もずっと続けていて、庭はいつも花でいっぱい。
実は結構ふてぶてしく強烈な(そしてミーハーな)性格をしているようだけど、一見したところは楚々としたなかなかできたおばあさまだと思う。

父方の祖母は、また全然違う。あんまり書くと、プライバシーの侵害になってしまいそうだから、詳細は省くけど、キャリアウーマンのさきがけのような人。夫よりも遅い定年まで働き続けた。
今は定年を迎えて、趣味を探しているところのよう。
一見したところは口うるさいばあちゃんといったところだろうけど、実のところすごく少女のようなところがあって、寂しがりやで、ちょっと卑屈で、ほっとけない、そういうかわいい人。

母方の家系は、地主か何か、というか「本家」で、祖母は長女で、ようするにしっかり者のお嬢さまといったところ。
細い身体に詰まったどっしり感は、やっぱりそういう育ちから来るものなのだろう。
どっしりっていうのはね、ピーチクパーチクまくしたてるのとは全く一線を画した、静かさのの中心に聳える芯。
いや、口調がおっとりしているだけで、結構しゃべるけどね。


文化の違いというのは、もちろんあるだろうけど。
でもね、ここでお仕事をしていて、
おばあちゃんたちを見ていても、おばちゃんたちを見ていても、
「こうなりたい」と思える人は、本当、いないんだよ。

こういう文化では、仕方ないのかもしれないけど、
電話越しなんかだと、特に、「あつかましさで押し通す」態度で日々を乗り切っているように思える。
それは、時に必要なことだけど、
時に悲しいことなのではないかな。

それとも、私の偏見で、どこもこんなものなのかな。
それか、これをどうかと思うこと自体、偏見に過ぎるのかな。




ところで、聖火リレー、来ましたよ。
私は、ちょうどオフの日だし、なんとなく物騒かもと思って出ませんでしたが。

ハウスメイトは朝イチのバイトで出ていて、シドニーから来るわ来るわの中国人学生のバス(チャーター含む)に驚いたそうです。
彼女の弟君は抗議活動に参加していたとか。
私があんまりに世情オンチなので、色々とレクチャーしていただきました。
そうか。聖火の守護者なんて方々がいるのですね。

オリンピック騒動で逆に影が薄くなってしまった感がありますが、
オリンピック云々はともかくとしても、
本当に、一日も早くチベットに平和が訪れますように。



あとね、ちょっとアボリジニに関する話を聞いていて。
ハウスメイトの彼女は、いわゆるコーカシアン(白人)オーストラリア人なのですが。
どこの世界でも、結局のところ、「歴史の真実なんてわからない」ということだな、と思いました。

本当であれ、嘘であれ、あまりにも長く<犯罪者>と言われ続ければ、
それに反発したり、疑問を持つ勢力が出て来るのは自然なことなのでしょう。

そして、一市民に過去の真実を覗くことなんて、できやしないのだから、
優柔不断と言われたって、私には、私が責任を持てる範囲でのことしか言えない。

そして、歴史の結果でここにいるだけだからと、
責任とか過去とか罪とか、全部丸投げしてしまう人が出て来るのも、
やっぱり仕方ないことなのかもしれない。
誰も皆、生きているだけなのだから。

それだけなのにどうして、こうも複雑にネガティヴに絡み合ってしまうのかな、とつい思ってしまうけれど、

輝くような瞬間も、たくさんあるのよね。
posted by ふね at 17:03| Comment(3) | TrackBack(0) | 生活ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月08日

聖地

時事的なことは、できるだけ書きたくないんだけど。
政治的なことはわからないし、何が本当かなんて本当にわからないから。

それでも、何も書かないのも無責任がしてしまいます。だから書きます。


チベットに平和を。


サンスクリットやアジア学を勉強していると、
どうしようにもふれることになるのがチベットです。

チベットの方は、今や世界中に散らばっていますけど、
今もかの地で生活していらっしゃる方が本当にたくさん、いらっしゃるんですよね。

一度だけ、His Holyness ダライラマの講演を聞きにいきました。
彼の人柄にふれると、今のチベットでの騒乱に心痛まずにいることは難しいです。

オリンピックボイコットの話、そうすることがいいこととも思えないけど、
そうしてもいいんじゃないかと思ってしまうのは危険なことなんでしょうね。


チベットに平和を。


今の私にできることは、祈りの力を信じるばかりです。
posted by ふね at 12:09| Comment(0) | TrackBack(1) | 心理ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月06日

re-creation?

とってもくだらないお話なのですが

先日、nug down と言いかけて、ふと口をつぐみました。
「これ、英語か? なんか違うぞ」

たった今辞書を調べてみましたが、やっぱりnugなんて動詞は無いもよう。
nagはありますがそれを言いたかったわけでもなし。

何が起こったのかって、

なぎ倒す

と言いたかったんですよ、私は。
たぶん、英語にこの同意語がある気がして脳内検索をした時に、
日本語の響きがひっかかってしまい、nug down誕生とあいなったのでしょう。
なかなかやるな、自分!

あほな話ですが、言語フリークなわたくしにはクリティカルヒットな現象でしたので。
posted by ふね at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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